◎正しい信心。正しいおかげ。他力的ご利益と自力的信心修行があいまっていかねばならない。
%1少年少女育成会館の機運。少年少女会の下からの著しい盛り上がり。
%2小学生の栄四郎ちゃんの気づき
JS
昭和四十三年二月十三日 朝の御理解
X理解第二十七節 「昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃという者でも、だんだん不幸なことが重なって、世間では、どういうものであろうというようなことがあろうが。なにほど、人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておかげを受けるのとは別ものぞ。」
御理解二十七節ですね。正直者じゃと、あの人は神様仏様のような人じゃと言うても、次々に難儀な事が起こって来ると、世間では、どうした事であろうかと言うような事があろうが。神信心しておかげを受けるという事は、「正直者である」という事と、「人が良い」と言うのと、それとは、「別ものである」と言うことを教えておられますね。
最近これは、まあ本当に下から盛り上がってくる力でございましょうねえ。少年少女会、学生会、青年会、そういう学生会少年少女会の若い、信心の若葉ともいわれるような、ここでの信心のいわば、二世、又は、三世という人もありましょうね。お孫さんという人達もあります。
そういう子供の信心という事に、いわば大人がおそまきながら、気付かして頂きよるというような雰囲気がございます。それはもう、子供たちの方から教えられておる。何とかしてくれといったような働き。
%1例えば、「少年少女育成会館、学生会館」と言ったようなものを建ててもらわなければ、お広前でも共励殿でも出来ないんだと。信心の稽古が出来ない。だから、若いもんにどんなにバラックでもいいから、建ててくれといったような。もう本当に、日よ夜よ継いで、その修行に打ち込んでいかれる青年の方達やらが。
%1又は、最近少年少女会なんかは、土曜の晩から泊まりこみで夜の御祈念を頂き、朝の御祈念を頂くことを楽しみにして、それから勉強と言うようなことを。共励殿いっぱい泊まり込んで信心の稽古をする。
あーただんに、大人が教えられるという感じなんですね。「下から盛り上がって来ているというのは、こういう様な事であろう」と私は思うのです。それはですね。私は全然、学生会とか少年少女会とかの会合に顔は出しませんから、どんな事を話し合いしたり、共励しておるか知りませんけれども。私、感じさせられる事がございますですね。
%2昨夜も私、久富先生とお風呂に入っとりますと、一番下の栄四郎が入ってまいりました。もう今年、小学校を卒業するんです。今日は、「僕がお父さん背中を流さしてもらう」と言う。いつも久富先生が御用して下さるんですけれども。今日は、栄四郎が背中を流してくれるんです。
%2それで僕も、いよいよ、この四月から中学校だから、「本気でひとつ勉強しなければいけないねえ」と私が話ましたら、僕も最近、それを考えるちゅう訳なんですね。その、この頃から、隅田先生のお話を頂いてぼくの心境が一変したという訳なんです。
%2(笑)偉いこと言うと思いましてですね。「どういう風に変わったか」と言うとですねえ。そしたら、今迄は、子供心にも「金光様、金光様」、親達が一生懸命言って。「有難い事じゃ、有難い事じゃ」の中に育っとりますから、いよいよの時には、「金光様と言やぁよか」と思うとった。いよいよの時には神様がござるけんと思うとった。
%2だから、勉強せんなりにでも試験の時は、金光様でやってたらしいですよね。ところが、その隅田先生が見えてから、この方というものは、これは、これだけじゃいかん。これはどうでも本気で、信心させてもらって、やっぱ勉強の方もベストを尽くさなければ、駄目だ。
%2そして、神様という事を、最近僕は少年少女会で話し合っているということが、「自力とか、他力とかの話をしている」と言うのですよ。私はたまがってしまいました。ですからねえ。どうしても、その自力の勉強から、そして他力の信心にならなければいけないと言う事を直接話合っている。「僕もそう思うた」と言うて、久富先生と二人で、もうたまがってしまいました。
本当に、これは親の方がぐずぐずしておれませんよ。親がとてもおかげ頂く。おかげ頂くなんかの信心で始終しとるようじゃ、おかげが受けられない。ここにですね。本当に少年少女、学生、青年の方達のほんとに育成という事が、「いかに大事か」と言う事が分かります。ね。
もうひとつ、私共がですねえ。只、もう真っ直ぐな人にならなきゃならんと言う様な事だけ、正直者、もう子供が真っ直ぐ育っていってくれるという事がですね。親として、他に取り柄がないばってん、うちの子供は正直者ですから、真面目ですからと言う様な事でなくして、本当に、私は信心の芽生えの時にですね。
本当の信心をです。子供の心の中から、只、もういよいよの時には、神様がござるけんと言ったような考え方ではなくて。本気でやはり勉強に精進しなければならない。そして、神様へのこの信心をと言う風に分からしていただかねばならないと言う事を。私は昨夜、風呂に入らして頂いてから感じたんです。本当に、「ほんとの正しい信心の育成が大事だなあ」という事でございます。
そこでです、私共が育てられておる。私共が、日々ここで信心の稽古をしておる。私達の信心の、その態度姿勢というものが、はたして、どうなのかと言う事です。子供達から見られる親の信心というのがですね。例えば、栄四郎が申しますように、「いよいよの時には神様がござるけんといったようなものを、深く刻み込んでいきよるような事はなかろうか」と言う事でございます。
この頃隅田先生が見えてから、お話を頂いていくうちににですね。やはり子供心の中にも、ただ神様、いわゆる他力本願だけではいけないと言う様な事を感じとっていっておりますね。私は、ただ、「子供が真面目に育っていく」と言う、その真面目な育ち方の中に。本当の信心をです、親達自身が頂いて、「それを育成して行く、ひとつの運動」と言ったようなものがです。下から盛り上がるように感じられる。
最近の合楽のお広前の中に、そういう雰囲気があるのです。親がぐずぐずしておられない。近い将来というよりも、もう近い内に、確かに具体的にそれが話になってくるでしょう。ですから、先日からも、総代さん方にその事の話も取り上げて頂いたり、企画の方達にも取り上げようとしておりますけれども。ただ育成会館がでけると言った様な事ではないのです。
親の一人一人が子供を持つ親の気持は、皆、同じですけれども。 それが本気で、自分達も一緒にその信心運動に参加さしてもらわなければでけんのです。「リ-ダ-の人達に任せとく」と言う様な事ではいけんのです。又、家庭での信心も、やはり親自身がその姿勢を正さなければでけんのです。
ですから、只、神様にお願いしさえすればと言うところから、信心で一生懸命勉強さしてもらおうと言うところ、ここが大事です。「信心で一生懸命に勉強さしてもらわなきゃいけんと、子供達が、私は悟らしてもらう」と言うと大袈裟ですけれども。
そういう風に気付かしてもらうと言うような、おかげを頂くということが。いよいよ正しく、いよいよ正しい、また信心を身に付けさして頂く。そういう機会に恵まれておる訳でございますから。この機を逸せずに、そういう育成運動に全部の御信心さん方が、それに参加して頂きたいと言うような事を感じましたですね。
そして教えられます。おかげ、おかげと言うような事でなくて、親自身が信心によって本当に救われていっておる姿を、いわゆる、まあ、言うならば自力的信心の修行によって、いわゆる人間と言うか、そのお互いの救われ、助かっていきよる姿と同時にです。いわゆるご利益を頂くという事とが、あいまっていっておるところのおかげを頂いていかなければいけないと言う風に思いました。
どうぞ、そういう意味合いに於ての、私、今、御理解を拝聴致しましたですねえ。昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃというても、信心しておかげを受けるというのは、又、別物。信心しておかげを受けると言うものは別物とおっしゃる。そこんところをひとつ分からにゃいかん。信心しておかげを受けると言う事は、こういう事だという事を、本当に教えておかなければならん。
信心しておかげを受けるという事は、神様にお願いして病気が直った。神様にお願いして試験がよう出来た。そういうような、いわば浅いおかげにとどまる様な教え方ではならない。
今日私が、栄四郎のその事から感じさせてもらいます様に、信心しておかげを受けるという事は、こういう様な事だと言う事を、親自体が本気で分からして頂かねばならないと言う風に思うのですねえ。どうぞ。